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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。
 
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聖書から

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聖書のことばから感じたことを分かち合います。

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ああ、神の人!

by admin posted at 2006-08-29 22:10 last modified 2006-08-29 22:12
おじさんライダー 

洗礼者ヨハネ。イエスの先駆者として「荒野に叫ぶもの」として、いわば、イエスの梅雨払い役をした最後の預言者。若い頃、「フォーランナーズ」(先駆者達)とうバイクのツーリングクラブをつくり、そろいのTシャツを着て走り回っていた。しかし、本物の先駆者はそんなイージーな人生ではなかった。

洗礼者ヨハネ「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、頂きとうございます。」時の王ヘロデの気まぐれ発言がとんでもないことに。さすがのヘロデも予期しない娘の答えに仰天。しかし、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。・・この国の半分でもやろう。」豪語した手前ヨッシャ!

ヨハネの斬首のあっけなさ。預言者の最後の格好悪さ。あまりにも滑稽なほどの神の人の末路。それもこれもひとえに、ヘロデという権力者の気まぐれな一言がもたらしたこと。

一権力者の気まぐれにも無力な神。なすがままの神。悪を見て見ぬふりする神?神がいるのに、何故正しい人が死ななければならないのか?そんな怒りの抗議にも沈黙する神。

十字架を知らないヨハネの悔しさは如何ばかりだったことか。そんな不条理が後を絶たない現実。最愛の幼子三人を一度に失った若い両親の痛みが辛い。それでも、十字架の不条理に出会ってくれたらと祈る。

今日は、そんな不条理を甘受した洗礼者ヨハネ斬首の日。

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一年のすべてに感謝!

by admin posted at 2011-12-31 17:21 last modified 2011-12-31 17:21
小聖堂の馬小屋

ブログを読んでくださった方、コメントされた方一年間ありがとうございました。世の中では、もうすっかり過ぎたことになっていますが、教会は、当方の博士たちが幼子を拝みに来たことを記念する1月8日の主の公現の日曜日まで、クリスマスの余韻を味わう降誕節です。で、新しい年も、皆さん一人一人の上に、幼子イエス様からの祝福がたくさんあるよう祈ります。新しい年もどうぞよろしく。

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Re:一年のすべてに感謝!

Posted by Marco at 2011-12-31 22:25
こちらこそありがとうござあいました。どうぞよい年越しを。感謝と祈りのうちに

司祭大会最終日

by admin posted at 2012-02-01 23:55 last modified 2012-02-02 08:10
教会発祥の地

復帰の碑

「はじめにことばがあった」というヨハネの書き出しが意味することとは?こんな命題を解き明かすためのキーワードが「飢え渇き」。

ヤコブの井戸で出会われたサマリアの女こそが人間の深い飢え渇きの生きた姿。まるで推理小説の世界を地で行くような、と言えば語弊があるかもしれないが、一つ一つ丁寧に謎解きをしていくような組み立ては、聞くものをして飽きさせない。理屈の羅列ではなく、覆われてしまっている人間の深みに分け入るための道筋をつけてくれる愛の執刀医と言ったほうがいい。人ごととしてではなく、自分のありのままの姿を優しく開示してもらっているようだった。

そんな私のというか、人間の根源的飢え渇きは四つ。話された順に紹介したい。まず「柔らかで、棘のない、暖かなものに包まれたい」という飢え渇き。温泉にどっぷりつかったときのホッとした感じを連想したが、胎内の赤ちゃんの状態が紹介された。この母子の関係こそ人間の究極の願望が満たされる「私の居場所」。ぞっとする堕胎現場の話も紹介されたが胎児でも緊張で身を固くするのだという。生まれた後の環境はどうか。子供が緊張する環境だと根源的飢え渇きは満たされることはない。

二番目は「かけがえのない存在として認められたい」という飢え渇き。ボクに馴染んだ言い方をすれば「ありのままの自分で愛されたい」ということか。できるできないで図られるのでなく丸ごと認められたいという願望は根源的で深いものだ。

たとえ、この二つの深い飢え渇きが満たされなかったとしても、「人に触れたい。つまり心に触れたい」という渇きが満たされれば生きる力が湧く。これも具体例が出されたが敢て割愛するとして、心がつながれば人間らしい心が戻り新しい歩みが始まるのは具体例を挙げなくても大なり小なり誰もが体験することだ。

イエス様は人間をこんな風に見ておられたのではないか。そこで出てくるのが信じるということ。それは「絶対確かだと思う人に裸になって飛び込んでいく行為」であって、「相手が豊かであればあるほど自分も豊かになる。」その典型的姿が母親と赤ちゃんの関係。

この対極にあるのがイエス様がヤコブの井戸で出会ったサマリアの女。彼女は、6度目となる男性遍歴。心から信じてありのままで飛び込んでいける人との出会いがなかった。それでも探し続けている。イエス様はそれを咎めるのでなく、彼女の満たされない出会いへの渇き、つまり真実の心に触れたいという飢え渇きを、何とか満たしてあげたいと思われてことばをかけられた。ここに冒頭の命題に対する解が見えてくる。すなわち、ヨハネにとって言葉は、学問的研究の対象ではなく、真実の「出会いを育て完成していく手段」。

聖書でことばは音になる前の思いをいうのだと学んだことを思い出した。イエス様は、人間を何とか救いたいという神様の思いを見える形で実現される方として、サマリアの女の前に立たれた。だから「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」となる。なるほど!

お昼の後希望者6名で拝山(標高125m)散策。市内が一望できる。早速、iPhonで全景をYouTubeにアップ。日本復帰の記念碑もあった。

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余韻に浸りながら

by admin posted at 2012-02-02 20:47 last modified 2012-02-02 20:47
優しい歩道

降灰?

司祭の役割とは?信徒の時代といわれて久しい。当初は、司祭が次々と仕事を奪われていくという被害者意識的発言が多かったように思うが、今では、信徒の時代はすっかり定着したかに見える。

もっとも、教会において聖職者の存在感は依然として大きく、小教区の雰囲気は主任司祭次第という現実は変わらない。そういえば、信徒の徒にはあまりいい意味がない。徒労、博徒。信仰が徒労に終わるのでは話にならないが、まして、信仰者のイメージが博徒を連想させるなどもってのほか。また信徒を意味するラテン語のライクスはドイツ語からきているそうだが「素人」という意味だという。司祭はプロ、信徒は素人、ということになりふさわしい用語とはいえない。

ともあれ、司祭が司祭として心に留めておきたいことは、イエス様が12人を選ばれたとき「神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6.12-12)ことだ。徹夜の祈りをされたというのだから12人をお選びになるということが、イエス様にとってどれほど重大な出来事だったかが分る。

旧約聖書には預言者という役職はあるが、使徒という役職は出てこない。ここにイエス様の新しさがある。マルコの選びの箇所では「派遣して宣教させ」(マルコ3.14)とあるので、遣わす者と遣わされる者という構図で教会は存在することになる。もっと言えば、「人々の痛ましい姿を見ていたたまれなくなった神が何とかしなければといって遣わされたキリスト」が12人を遣わされた。遣わす者の意図に従うことで遣わされた者の存在理由はある。遣わす者の意図にそぐわないなら遣わされた者の存在理由はないことになる。

だから「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」(マタイ16.26)ということになる。遣わすお方としてのキリストの意図に従うことこそわが命、なのだから。そんな重大な役割を司祭に果たしてもらうためにキリストは今も終わることのない祈りを捧げておられるのだ、と思う。我らが主もノベナの祈りの愛好者だと嬉しい。二番煎じとはいえ、講師の意図からずいぶんかけ離れたものになってしまった。講師の人間的優しさから紡ぎだされたぬくもりに満ちたメッセージの数々を、自分なりの「福音伝承」となることを願いながら暖め続けて生きたい。

5日ぶりの鹿児島は雪。冷蔵庫だが室内は16℃。

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