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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。
 
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司祭大会最終日

by admin posted at 2012-02-01 23:55 last modified 2012-02-02 08:10
教会発祥の地

復帰の碑

「はじめにことばがあった」というヨハネの書き出しが意味することとは?こんな命題を解き明かすためのキーワードが「飢え渇き」。

ヤコブの井戸で出会われたサマリアの女こそが人間の深い飢え渇きの生きた姿。まるで推理小説の世界を地で行くような、と言えば語弊があるかもしれないが、一つ一つ丁寧に謎解きをしていくような組み立ては、聞くものをして飽きさせない。理屈の羅列ではなく、覆われてしまっている人間の深みに分け入るための道筋をつけてくれる愛の執刀医と言ったほうがいい。人ごととしてではなく、自分のありのままの姿を優しく開示してもらっているようだった。

そんな私のというか、人間の根源的飢え渇きは四つ。話された順に紹介したい。まず「柔らかで、棘のない、暖かなものに包まれたい」という飢え渇き。温泉にどっぷりつかったときのホッとした感じを連想したが、胎内の赤ちゃんの状態が紹介された。この母子の関係こそ人間の究極の願望が満たされる「私の居場所」。ぞっとする堕胎現場の話も紹介されたが胎児でも緊張で身を固くするのだという。生まれた後の環境はどうか。子供が緊張する環境だと根源的飢え渇きは満たされることはない。

二番目は「かけがえのない存在として認められたい」という飢え渇き。ボクに馴染んだ言い方をすれば「ありのままの自分で愛されたい」ということか。できるできないで図られるのでなく丸ごと認められたいという願望は根源的で深いものだ。

たとえ、この二つの深い飢え渇きが満たされなかったとしても、「人に触れたい。つまり心に触れたい」という渇きが満たされれば生きる力が湧く。これも具体例が出されたが敢て割愛するとして、心がつながれば人間らしい心が戻り新しい歩みが始まるのは具体例を挙げなくても大なり小なり誰もが体験することだ。

イエス様は人間をこんな風に見ておられたのではないか。そこで出てくるのが信じるということ。それは「絶対確かだと思う人に裸になって飛び込んでいく行為」であって、「相手が豊かであればあるほど自分も豊かになる。」その典型的姿が母親と赤ちゃんの関係。

この対極にあるのがイエス様がヤコブの井戸で出会ったサマリアの女。彼女は、6度目となる男性遍歴。心から信じてありのままで飛び込んでいける人との出会いがなかった。それでも探し続けている。イエス様はそれを咎めるのでなく、彼女の満たされない出会いへの渇き、つまり真実の心に触れたいという飢え渇きを、何とか満たしてあげたいと思われてことばをかけられた。ここに冒頭の命題に対する解が見えてくる。すなわち、ヨハネにとって言葉は、学問的研究の対象ではなく、真実の「出会いを育て完成していく手段」。

聖書でことばは音になる前の思いをいうのだと学んだことを思い出した。イエス様は、人間を何とか救いたいという神様の思いを見える形で実現される方として、サマリアの女の前に立たれた。だから「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」となる。なるほど!

お昼の後希望者6名で拝山(標高125m)散策。市内が一望できる。早速、iPhonで全景をYouTubeにアップ。日本復帰の記念碑もあった。

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余韻に浸りながら

by admin posted at 2012-02-02 20:47 last modified 2012-02-02 20:47
優しい歩道

降灰?

司祭の役割とは?信徒の時代といわれて久しい。当初は、司祭が次々と仕事を奪われていくという被害者意識的発言が多かったように思うが、今では、信徒の時代はすっかり定着したかに見える。

もっとも、教会において聖職者の存在感は依然として大きく、小教区の雰囲気は主任司祭次第という現実は変わらない。そういえば、信徒の徒にはあまりいい意味がない。徒労、博徒。信仰が徒労に終わるのでは話にならないが、まして、信仰者のイメージが博徒を連想させるなどもってのほか。また信徒を意味するラテン語のライクスはドイツ語からきているそうだが「素人」という意味だという。司祭はプロ、信徒は素人、ということになりふさわしい用語とはいえない。

ともあれ、司祭が司祭として心に留めておきたいことは、イエス様が12人を選ばれたとき「神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6.12-12)ことだ。徹夜の祈りをされたというのだから12人をお選びになるということが、イエス様にとってどれほど重大な出来事だったかが分る。

旧約聖書には預言者という役職はあるが、使徒という役職は出てこない。ここにイエス様の新しさがある。マルコの選びの箇所では「派遣して宣教させ」(マルコ3.14)とあるので、遣わす者と遣わされる者という構図で教会は存在することになる。もっと言えば、「人々の痛ましい姿を見ていたたまれなくなった神が何とかしなければといって遣わされたキリスト」が12人を遣わされた。遣わす者の意図に従うことで遣わされた者の存在理由はある。遣わす者の意図にそぐわないなら遣わされた者の存在理由はないことになる。

だから「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」(マタイ16.26)ということになる。遣わすお方としてのキリストの意図に従うことこそわが命、なのだから。そんな重大な役割を司祭に果たしてもらうためにキリストは今も終わることのない祈りを捧げておられるのだ、と思う。我らが主もノベナの祈りの愛好者だと嬉しい。二番煎じとはいえ、講師の意図からずいぶんかけ離れたものになってしまった。講師の人間的優しさから紡ぎだされたぬくもりに満ちたメッセージの数々を、自分なりの「福音伝承」となることを願いながら暖め続けて生きたい。

5日ぶりの鹿児島は雪。冷蔵庫だが室内は16℃。

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余韻の中で

by admin posted at 2012-02-03 21:21 last modified 2012-02-03 21:21
大島高女跡

日本教会の行き詰まり加減はかなりのもの。数が増えないということもさることながら、後に続く若い人がいない。教会維持費の負担者は高齢者ほど多く、

働き手の30代、40代は極端に少ないという。日本の年金問題と同じで、支えあう気持ちはあっても子育て世代にとってゆとりはない。教会の高齢化に溜め息ばかりが出る。そんな閉塞感を打破するようなインパクトを与えたのが司祭大会の講師の話。

教義や権威といった当局側の立場を少し減らして、住みずらい現実の中でもがいている人々に愛を吹き込むことをもっと大事にすれば教会は発展するはずだとする視点に共感する。心と心のふれあいを求め、柔らかで、棘のない、暖かなものに包まれたいと切望し、そしてかけがえのない存在として認められたいと心底願いながら、競争社会の中で見通しの立たない現実を強いられている人々のことを深く心に留めておく必要がある。その視点のもとに信者たちの前に立ち、そうして信者たちも同じ視点で身近な人々のもとに派遣されていく。

毎年の自殺者は3万人、未遂者はその倍とか。自殺願望者になるとどれほどの数字になるっことか。そんな話を聞くと、確かに、ノンビリと聖書の勉強どころではなくなる。なんとなくあせりすら感じてしまう。とはいっても、あさっての日曜日は小教区でのミサ。注解書を引っ張り出し、マルコ福音書の重要性、神学などの項目にあたっているうちに、メッセージをまとめることもできないまま終礼の時間になった。そんな目の前の現実と格闘している自分を見るにつけ、教義や権威付けを弱めてなどということがかすんでしまう。そして、相変わらず権威や教義の壁を越えられないまま元の木阿弥、にはなりたくないのだが・・・。

久しぶりの室内ランで快汗。

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小さな音楽会

by admin posted at 2012-02-04 14:53 last modified 2012-02-04 14:58

カトリック国分幼稚園恒例の音楽会に出かけた。国分市民会館は音響が素晴らしく、子供たちの歌声が会場一杯に広がった。歌に踊りに合奏と日頃の練習の成果が披露された。YouTubeで二つだけ見ることができる。なぜか一つは音声が出ない。悪しからず。フェイスブックにもアップしてある。3:00に来客そして再び国分へ。で、とりあえず今日はこれだけ。

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思いがけないノベナキャンペーン

by admin posted at 2012-02-05 16:46 last modified 2012-02-06 17:19
路傍の花

7ヶ月ぶりの国分教会は、いつもより少ないということだったが、かねては、従来の2倍ほどの40-50名の参加者があるのだという。顔ぶれも多彩で、

赤ん坊を抱えた若いお母さんに鹿児島弁を話す金髪の子どもたち、それに数名の求道者。そしてミサの侍者は母親についてきたという洗礼がまだの小学4年生。

2月5日は日本26聖人の殉教した日とあって主任司祭は緑をやめて真っ赤な祭服着用を決めた。主の日が優先するのでは?と異議を挟もうと思ったが、「権威や教義は少し控えて・・・」という司祭大会でのラディカルな提案が蘇ったので、素直に従った。たしかに、色を変えたぐらいでイエス様も目くじら立てることもあるまいと思えば、少々のことは気にならなくなるから楽だ。

気持ちが楽になるということは確かに福音の実りの一つには違いない。日曜日ミサに行くことで、かねての緊張がほぐれ、気を楽にもって一週間をはじめることができるなら、イエス様も思わず、「よしっ!」とエールを送ってくださるに違いない。生き辛い日本の社会につぶされないためにも日曜日のミサを大事にして欲しいと思う。日本でも有数の元気のある町のひとつだけに教会に集う人々も元気になって欲しい。

ミサ後、一人のご婦人が、新年号の教区報と毎日祈っているというノベナの祈りの本を手に持って、興奮気味に話しかけてきた。「5年間毎日これで祈ってます。司教様がノベナの祈りについて明言されたので嬉しくて嬉しくて・・・。」しかも、説教で「祈りは効く」と言ったものだから、わが意を得たりとばかりに、「これです、この本です。本当にお祈りは効くんです!」と周囲のみんなにも大キャンペーン。みんなは彼女に釘付け。「熱心な人々の祈り」だと思っていたという彼女の証言にはインパクトがあった。認知度をえたノベナの祈りが教区を変える。信心が宣教の力となる。そんな予感がしたひと時だった。

帰りのJRはほぼ満員。休日は鹿児島まで繰り出すらしく、高校生らしい若い人たちが目立った。

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つれづれに

by admin posted at 2012-02-07 22:03 last modified 2012-02-07 22:03
ヨセフ司教

霊名の記念日に叙階記念日と、たくさんのおめでとうのカードや色紙を頂いたお礼書きが昨日で終わり、なんだか宿題を終えたような気分になったこともあって、今日は息抜き。

毎月届く小教区報やよその教区から届く教区報にもゆっくり目を通すことができた。そして、ゆったり気分のついでに久しぶりにUcaNewsを開けてみた。すると、意外なニュースが。

ドイツのメルケル首相が中国広州教区のヨセフ甘俊邱司教訪問。司教はバチカン公認。4日配信のUcaNewsが伝えた。

司教さんは、政府高官から首相訪問を知らされただけで何のためなのか分からないと困惑気味だという。そんな彼に政府高官は「教区を紹介したりすればいい。そして何を聞かれようとも聞かれたことにはちゃんと答えればいい」と伝えたという。いずれにしろ、メルケル首相が中国とバチカンの関係についての踏み込んだ話をするかどうかは不明、としているが本当はどうだったのだろうか。

それにしても、ドイツ首相が中国の教会訪問とは、唐突な感じがしたがすでに5回目の訪問だという。ちなみに首相はプロテスタントで科学者。これも意外な発見だった。

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魔法の靴

by admin posted at 2012-02-09 21:55 last modified 2012-02-09 21:55
下ろし立て

「履いてるだけで健康になる靴。」「エーッ!」と一同が声を上げたことはいうまでもない。先月2日だったか、チーズパーティーの席上。

しかし、「確かにいいです」という体験者の証言は、生真面目な人柄だけに、半信半疑の驚きを感嘆の声に変えてしまった。そして、真面目な解説はわずかでも効果てき面。「是非欲しい!」という人まで現れた。当然のことながら?そのうちの一人がボクだ。

あれから一月あまりの今日、所要で出向いた近くが例の靴屋さん。用事を済まして探索開始。少し手間取ったが間もなく見つかった。裏通りの小さな、しかしこぎれいな店。パーティー後早速購入したという「是非欲しい!」一人の名前を告げると笑顔で歓迎してくれた。

足裏の検査は足指のマッサージから。「足の甲は温かいが指先が冷たいです。で、先ず、5本の指を温めるために神経を刺激します」と言ったかと思うや否や、「痛ッ!」刺すような痛みの部位は疲労したり異常をきたしている内臓や上半身の各部位に連動しているという。偏平足特有の足のゆがみが腰や肩、首に異常を生むとも。ニコニコしながらの解説はクヤシイ。全身悪いところばかりじゃないか。少ししょげた。

「私はトライアスロンをやっていましたがウォーキングに変えました。マラソンは止めたほうがいい。体にどれほどのダメージを与えることか。」ショック!筋肉はしっかりついているが両足とも疲労が溜まっているという診断には納得。それでも、「確かに人はもともと走っていたのではなくて、歩いていたとは思う。だけどボクは目標があるから走る」と小さな反論を試みたら「私もそうだった。自己満足でね。」

マッサージのあとは足の計測。「25.5じゃ大きいし・・・」「いえ、26.5です。」「靴というのは足にピッタリがいいんです。靴の中で足が動くようでは効果がありません。」まさにトッカエヒッカエ、入店から1時間余。ようやく決めたサイズは驚きの25センチ!「かかとから下ろして指先で蹴るように」歩く練習を店内で終えてやっと放免。

確かに足の締め付けは強いが、それほど違和感はなく軽快な足取りは意外。帰館後脱いだ足元の気分は、マッサージを受けた後の爽快さ。当分走りは休み?どうしたものか。

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この場を借りて・・・

by admin posted at 2012-02-10 21:17 last modified 2012-02-10 21:17
預言の書

二冊の本が届いた。いずれも今どきのもの。下山の思想と死にいたる虚構。前者は注文、後者は友人からの進呈。いずれも少しだけ呼んだ。だから、コメントする資格はないが、

「民」が針で目を刺され見えなくさせられた奴隷を意味する文字だと知ってギョッとした。だから、「民という字は嫌いで、人民といういい方も民主主義という言葉も嫌い」(下山の思想16頁)なのだという。早速二つの辞典に当たってみた。どちらにも同じ意味があった。なるほど!普段、意に介することなく使用している言葉に立ち止まり深い洞察をめぐらすことができるセンスは、さすがに、著名な作家。羨ましいような、妬ましいような。

突然だが、イエス様は日常目にしたり口にしたりするものを取り上げて教えを説かれた。「あなた方は地の塩である。塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味がつけられよう」(マタイ5,13)。無学な人々でも思わず「なるほど!」と合点したに違いない。そんな話術が受けて?人々は「権威ある新しい教えだ!」(マルコ1,27)と歓喜した。そして永遠のベストセラーに。

話はそれたが、上述の一文を読んで感じるのは、物を書く人の視点の新しさはイエス様の新しさに通じるものがあるように思えてならない。そんな「新しい視点に立った福音」を説く者としては、だから羨ましいのだ。そうは言っても、めげずにみことばのネットを張り続けるのは楽しい。第一、売れるか売れないか全く気にする必要がないから気が楽だ。無視されようが痛くも痒くもないところがいい。無責任な感じもするが、自分なりに訴えたいことは訴えているつもりだ。

本心をいえば、目の前の限定された聴衆+αという不特定多数の聴衆に語っているという自負はある。だから、日曜日説教する司祭たちに言いたい。+αのためにネットを張りさえすれば居ながらにして宣教していることになる。フェイスブックができるなら、是非宣教的説教に乗り出して欲しい。日曜日になると日本各地の教会から、みことばのネットが一斉に放たれる。想像しただけでも楽しいではないか。司祭たちに説教とは釈迦にナントカ?

魔法の靴での初散歩は靴ずれもなく50分。明日は走ろう。

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