それでも午前五時
カトリック鹿児島教区報・2009年1月号掲載記事
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「日本は『午前五時』」という記事を読んだ。かつては午後三時だったという。逆ではないかと思ったのだが違うらしい。「今は暗い。でもそれは午後十時ではない。まもなく夜は明ける」と結んでいた。
経済学者が見れば『好機到来』なのだという。行き場を失った人々にしてみれば「のんきなことを言うな」と怒りたくなるかもしれない。ひるがえって、教会の現状はといえば、「『午前五時』などと言っている場合ではないだろう」と言わんばかりの、抗議とも揶揄ともとれない匿名の手紙が届いた。「教会は腐敗している」というのが趣旨のようだった。その視点に立つことはできないとしても、「カトリックという宗教組織は社会をどうしたいと考えているのでしょうか」との問いには答えなければならない。もっとも、手紙の主が信者であるなら答える必要はないと思うのだが、それでも「教会は社会を福音の価値観で満たしたいと思っている」と答えると、「待ってました」とばかりに反論が帰ってきそうな感じもする。
ともあれ、教会にほころびが多いことは認めるとしても、主がお建てになった教会が完全に腐敗してしまうことは決してない。実際のところ、自分の目と耳で確かめていることは喜びや希望のほうがずっと多い。昨年十一月の長崎のあの感動、百周年を祝った瀬留教会で満場を沸かした八十四歳の元気印のおばあちゃん。信者未信者の違いを忘れて踊った島の踊り、などなど。数え上げるときりがない。一方若者に目を向けると、「中高生のためのクリスマスを準備する会」を企画したところ十一人のために六十人もの若者たちが名乗りを上げたという。その中学生たちが、今度は「小学生のためのクリスマス会を準備する会」を立ち上げたのだという。この信仰の営みの連鎖こそ生きている証拠。
教会に若者がいないという嘆き節が聞こえる中で、ある時、「若者が若者のために宣教しよう」という志を持った一人の若者が現れる。これこそが教会の底力だし、エネルギーだし、魅力でもある。風前の灯から身を起こしたのが死と復活という我らが信仰の原風景。だから、究極の自然治癒力を備えた教会の再生力に期待できるという意味で午前五時なのだ。



